オーストラリア
オーストラリアの歴史(白豪主義とアボリジニ)

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はじめに

最近では日本でも観光地としての認識が強くなってきた国、オーストラリア。温暖で、過ごしやすく、コアラがいて、カンガルーがいて、奇麗なビーチがあって、老後の生活には最適と思われている国、オーストラリア。それだけ?他に何かないものか?ある。表面上の固定観念を打破するようなオーストラリアの素顔がここにある。ここでは、オーストラリアの裏を概観できるように、まずは歴史から今までの経緯を辿って、次に現在の真の姿を検証したい。アボリジニと移民を中心に書いてみました。やや学術論文のような趣がありますが、我慢して読んで下さい。興味のない人は読まない方がいいです。

オーストラリアの歴史

入植の背景
オーストラリアはまだ、ヨーロッパ人による最初の移民から200年を過ぎたばかりの新しい国家である。だから、過去と今までの繋がりが非常に太い。オーストラリアの真の姿を見るために、まず歴史を見てみよう。
オーストラリアはイギリスの流刑植民地として出発した。それまで、アメリカがその役目を果たしていたが、アメリカが1776年に独立すると、イギリスは流刑囚をアメリカに送れなくなってしまった。イギリス政府は行き場の無くなった流刑判決を受けた囚人の収容場所に困った。はじめは囚人の労働力を公共事業などに役立てようとしたが、年々増えていく流刑囚には手をこまねいていた。そこで、キャプテン・クックの航海によって発見されていたオーストラリアのニューサウス・ウェールズ(以下NSW)のボタニー湾を新しい流刑地とすることが決まった。初代総督アーサー・フィリップの指揮の下、11隻の艦隊は1788年にボタニー湾に到着する。しかし、そこは入植に不適とされ、ポートジャクソンに移動することになる。フィリップ総督は定住地を置く予定の場所をシドニーコウヴと名付け、1788年1月26日に上陸する。

原住民との出会い
フィリップらの入植した地には、何万年も前からそこに住んでいた原住民がいた。アボリジニである。西洋人の入植は、同時にアボリジニ迫害の幕開けでもあった。今でこそアボリジニを保護する法律が制定されているが、まだ問題の根本的な解決には至っていない。これについては後で詳しく書く。

移民
オーストラリア人は、アボリジニ以外全員移民してきたと言える。しかし、白人入植者は後から来たにもかかわらず徹底的に人種差別した。それに加え、1850年代のゴールドラッシュにともなって新しい移民が大量に流入してくると、今度は白人労働者が有色人種に対する差別を強めた。移民の多くは英国以外のヨーロッパ諸国からだったが、オーストラリア人労働者の脅威の的となったのは中国人だった。この差別意識が後に「白豪主義」へと発展していく。
1901年に「オーストラリア連邦」が結成されるまで、各州で中国人排斥のための様々な条項を盛り込んだ法律が成立していた。そして、連邦政府が制定した最初の法律の一つが非ヨーロッパ人の締め出しをはかる「移住制限法」であり、これにより1960年代までオーストラリアの移住政策の基礎となる白豪主義政策(White Australia Policy)が完成された。オーストラリアの白豪主義は、形式的には全ての移民に適用されることになっていたが、実質的には中国人、インド人、そして日本人をはじめとする有色人の排除のために利用された。その白豪主義は、1949年までには変化が見られるようになる。最初に認められた白豪主義の変更は、アジアからの戦争難民の受け入れを認めたことであった。そして、1973年にはウィットラム労働党政権によって、移民法が改正され人種差別条項が撤廃されることになる。さらに、移民大臣アル・グラスビーによりマルチカルチュラリズム(multiculturalism)が提唱され、人種差別、強制同化政策との決別が示された。多文化主義(マルチカルチュラリズム)と公式には名付けられたが、しばしば文化多元主義(cultural pluralism)として論じられている。
制度的には大きな変化が生じたわけであるが、マルチカルチュラリズムが良い側面ばかりを持っているわけではない。マルチカルチュラリズムに移行したばかりに表面化した問題もあるし、そもそも移民やアボリジニに対する差別が根本的に無くなったわけでもない。以後、細かくアボリジニと移民について見ていくことにする。

アボリジニ

悲劇の始まりと現在までの概観
1788年1月26日にフィリップ総督率いる流刑囚を積んだ11隻の艦隊がシドニーコウヴに入植した時から、アボリジニの悲劇は始まった。そして、その悲劇は現在も終っていないと言える。今でこそ政府もアボリジニに対し様々な保護立法をし、アボリジニの要求にも耳を傾けるようになった。しかし、いかに白人側からの感覚で保護を与えようと、アボリジニにとってはそれが保護になっていないことがある。アボリジニの中に酒に溺れたり、暴力を振るう人が多いは、アボリジニが元々そのような性格の持ち主であるというわけでなく、政府の保護のありかたにも目を向けて考える必要があるということを示唆する。具体的には、政府はアボリジニのアイデンティティの回復など、精神的なところまで目を向けるべきである。
アボリジニと白人の対立が激しくなったのは、1830年代に入り、牧羊産業が盛んになり、自由移民が移植しはじめたときだった。羊や牛を連れて牧草地拡大に躍起となった白人達は、次々にアボリジニの土地に侵入して、土地を手当たり次第に取り上げていき、暴力、武力、新しい病気、アボリジニ女性の掠奪などの方法で、アボリジニ社会の解体を急激に推し進めたのである。

入植以後の対アボリジニ政策と土地所有観念の相違
アボリジニと白人の衝突の最も根本的な原因は、彼らの土地所有観念の相違に求められる。アボリジニの間には特定の領土意識が存在し、近代的な土地所有観念はなくとも、先祖の創造した土地と宗教的な結びつきがあり、部族全体として土地所有の意識があった。しかし、入植者はアボリジニの土地所有の歴史を認めず、本来アボリジニの依存していた土地に侵入していったのである。
これには、キリスト教の教えから、神に与えられた土地を無為に放っておくことはできないという正当化された理由が存在したからでもあった。でも、アボリジニに対する保護の手も差し伸べられたのも事実である。イギリス政府、人道主義者、キリスト教徒のミッションなどによる保護である。19世紀から20世紀初頭なってはじめてアボリジニ保護のための法律が成立する。しかし、それらは基本的に場当たり的な対応だった。

アボリジニのアイデンティティ
1970年代のウィットラム労働党政権の下において、アボリジニ問題省(Department of Aboriginal Affairs)の政策は、強制的な同化政策から、文化の維持を認めつつオーストラリア社会への統合、あるいは自主的同化を促進する統合政策に移った。アボリジニの独立、自主性を強調する政策が次々と打ち出された。ウィットラム労働党による「自己決定主義」、フレーザー政権による「自己管理主義」、そして、ホーク政権による「自己充足主義」などがそれにあたる。これらにより、アボリジニの権利はかなり認められたと言える。しかし、オーストラリアの白人マジョリティとアボリジニ・マイノリティの関係が改善されたわけではない。また、アイデンティティの回復とは到底言えない。
しかし、アボリジニに関して、白人側の判断だけでいくら議論しても土地の所有権などの諸問題の解決には繋がらない。白人はアボリジニについての議論をやめて、彼らと一緒に計画を立てたりして、対等の立場で議論を交わす必要がある。

白豪主義と移民

白豪主義政策の要因と変遷
オーストラリアは白豪主義という人種差別の歴史を持っている。これは1850年だいのゴールドラッシュの際に、大量の中国人が流入したことにより触発された。有色人移民は、オーストラリアの労働者にとって脅威だった。一方で、移民を必要としているオーストラリア人もいたのも事実である。安い賃金で辛い労働を担ってくれる人を求めていたオーストラリア人資本家などである。しかし、当時の風潮としては、有色人移民の排斥が圧倒的だった。
ゴールドラッシュ以前にも有色人移民が流入していたが、その時には牧羊産業の発達により労働力不足が深刻化していたので、潜在的に白豪主義による人種差別的態度があったとしても表面化されなかった。
1901年にオーストラリア連邦が成立し、それにともない「連邦移住制限法」が制定され、白豪主義政策が完成された。それほどまでにオーストラリアがアングロ・サクソン系の国家に執着したのは、幾つかの理由がある。
まず第1に、経済的要因がある。特に不況時には、移民の増大によって彼らと競合する立場にいるオーストラリア人は白豪主義に救いを求めた。
第2に、当時の日本のめざましい台頭と拡張主義があげられる。
そして、第3にオーストラリアの歴史に神話性が欠如していたことが要因として考えられる。1901年に既存の植民地が統合されて、オーストラリア連邦が成立した時も、建国の父たちが国民に対して訴えるべき理想や、その背景となるべき国家の神話は全く存在しなかったのである。そのため、オーストラリア人は有色人種を、とりわけアジア人の特性を否定的に表現することによって、白人の国家オーストラリアの有する肯定的な価値を生み出そうとした(注)。

では、その差別的移民政策はどのように終焉を迎えたのだろうか。白豪主義人種差別は第2次大戦後も続いたが、戦後直後から変化が見られるようになる。戦後のオーストラリアでは、本土防衛のために人口増加させる必要があり、また、戦後の経済復興と経済成長促進のための労働力調達が必要であった。そのため、大量移民導入計画が実施されたのである。非英語系のヨーロッパ難民でも、白人という制約付ではあったが、同化可能な人々であれば移住を許可されるようになった。排他的人種差別主義から、同化主義へと流れが変わりはじめたと言える。
しかし、基本的にこれらの政策は白豪主義からの脱却を意図するものではない。有色人種に対する移住制限は維持されたままだった。1950年代に入ると、ヨーロッパ難民が枯渇しはじめ、その制限も緩和されてくることになる。60年代になると、労働力不足を補うために、アジアからの移民も制限的にではあるが認められるようになった。さらに、、1956年以降アジア人にも市民権が与えられるようになっていたが、1966年にはそのために必要な年限の差別も取り払われた。そのように白豪主義政策は済し崩し的に捨て去られていくことになった(注)。
その後、1973年には、ウィットラム労働党政権は人種差別を意図する全ての差別立法を廃止し、移民大臣アル・グラスビーによりマルチカルチュラリズムが提唱され、強制同化主義に終わりが告げられた。

白豪主義政策の終焉の要因
以上のように、法的な面での白豪主義は廃棄され、文化多元主義に基づくマルチカルチュラリズムの提唱がなされたが、なぜオーストラリアはそのような政策に移行していったのか。つまり、アジア人の移民をなぜ認めるようになっていったか。以上でも軽く触れたが、このことを考察するには、オーストラリアの内外の経済関係、インドシナ難民の受け入れを考える必要がある。まず、国内の経済を見てみる。
オーストラリアは第2次大戦後、外交・防衛戦略として1951年のANZUS同盟を要にして、「前進防衛」戦略と採った。そして、50年代後半以降、防衛問題が人々の注目を引かなくなった後、人口増加が経済成長の実現にとって重要であるという認識が普及した。特に、国内市場重視の輸入代替工業の発展には移民の増加が必要だった。更に国外の経済関係に目を向けてみる。高度成長期の助走を始めていた日本は、1957年に調印された日豪通商協定を機に、オーストラリアの鉱物資源の輸出市場として拡大し続けた。60年代に入ると、、東南アジアもオーストラリアの貿易パートナーとしての重要性を増す。そのため、むきだしの白豪主義は対外的に好ましくなかった。これも白豪主義政策からの脱却の大きな要因である。
しかし、これらが実質的な白豪主義の終焉へと直接的に繋がったというわけではない。どこで実質的にオーストラリアは白豪主義から脱却したかを検証するにあたり、1975年以降のヴェトナム難民を中心とするインドシナ難民の受け入れの諸要因を考察することは有効である。
インドシナ難民の積極的な受け入れは、1970年後半、フレーザー自由国民党連合政府の時代になってからだった。政府は表向きには、難民受け入れを人道的理由のもとおこなっていたが、他にも様々な要因が考えられる。中でも、今後の発展のために、アジア・太平洋国家としてのオーストラリアの宣言的な要因は大きいと思われる。オーストラリアはヨーロッパ人の植民によって始まった国家であるが、地理的にヨーロッパ諸国と離れた位置に存在する。そのため、どうしてもオーストラリアはアジア・太平洋国家として、近隣の諸国と協力していかなければならない。ジェフリー・ブレイニーのいう「距離の暴虐」にさらされたオーストラリアの持つ宿命とも言える。
インドシナ難民の受け入れは、ASEAN諸国や他のアジア諸国と協調的に進んでいくオーストラリアの宣言であったと同時に、密接に白豪主義の終焉と結びついていたのである。

多文化主義の模索

『ガルバリー・レポート』の意義
ウィットラム政権は、ヨーロッパ人と同じように非ヨーロッパ人にも市民権の獲得を認める「市民権法」(73年)に続いて、「人種差別禁止法」(75年)を制定した。この政権において、多文化主義の種が蒔かれたと言えよう。その種を開花させ、多文化主義をオーストラリアの新しい政策の基本に据えたのが、75年にウィットラム政権を引き継いだフレーザー保守連合(自由・国民党)政権だった。
同政権は、改めて体系的で確固とした哲学や理念にのっとった移民政策を行うために、今後どのようにすべきかを調査させ、勧告を求めた。それが「ガルバリー・レポート」(正式名称:「移民に関する到着後のプログラム及びサービスについての評価」)である。
これにより、それまで曖昧であった移民、難民の移住と定着性策の基本的原則が明確にされ、対策の体系化が図られた。報告は具体的な施策として、様々な提言を行なった。例えば、多文化的態度を社会全体に盛り上げるためには、学校教育が大きなカギを握るとされ、第二語学としての英語、コミュニティ言語、異文化理解カリキュラムに力を入れる多文化教育予算の増額や、エスニック問題を総合的に研究、政府に勧告する「多文化問題研究所」の設立、福祉などの住民サービスの拡充とともに、その活動を担うエスニック団体の自助努力の奨励、試験的なエスニック・テレビの開局を含むエスニック放送の拡大などである。

この報告の内容は、実際に70年代後半から80年代初頭にかけて実現された。フレーザー政権のもと、非英語系の人々が不利にならないように英語教育の拡充が図られ、また、人種・エスニック関係の向上のために多文化教育が実施されたことは重要な発展であった。

現在の多文化主義の模索
果たしてオーストラリアの多文化主義政策は成功したのだろうか。以上で見てきたように1978年のガルバリー報告が政府に受け入れられたことは、多文化主義の成功と認めてよいと思われる。しかし、多文化主義の発展に伴い、様々な問題も生じており、現在もその模索段階と位置づけられる。
そもそも、多文化主義という政策が究極的にどこに向かおうとしているのかが不明である。マルチカルチュラリズムの行き過ぎは、一つの社会の分断と、不安定をもたらしてしまう。実際、この政策が実行されていくにしたがって、この政策はコミュニティ関係の解体を奨励しているのではないかという恐れを感じる人も出てきた。
しかも、毎年、非英語系移民・難民のために数千万ドルが支出されており、近年、経済的に苦しくなると、マルチカルチュラリズムに対する修正を求める異見も当然出てくる。それに加え、近年オーストラリアは脱工業化へ積極的な姿勢を示している。脱工業化の時代には、職務遂行上、言語的コミュニケーション能力や高度の教育が必要になってくる。そのため、非英語系移民は社会的・経済的にコストを増大させてしまう。このことは、これからのオーストラリアにとって大きな問題となっていくだろう。

オーストラリアは全ての人々の社会生活への平等な参加と、機会の均等を目指している。しかし、多くの人は、多文化主義とは、英国系オーストラリア人の表面的な譲歩に過ぎないと感じている。実際、エスニック・マイノリティのライフスタイルの選択の機会を決定する主要制度には大きな変化がもたらされなかったのである(注)。
こうした諸問題を抱えながらも、オーストラリアは移民の定住と彼らの共存において、他の諸外国に比べて比較的うまくいっているとみてよいと思われる。そして、その模索はまだまだ続いている。

ホーク首相の言葉「多様な文化を持った人々が寛容の精神に立ち、創造力と調和を備えた社会で共に生きていくことが可能であるということを証明することによって、我々は世界に一つのモデルを提供し、国際社会の尊敬を勝ち得ようとしている。」

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参考文献